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- 福田荘(中世)とは
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福田荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名三好郡のうち寿永3年4月24日の源頼朝下文案によれば,賀茂別雷神社42か所の神領の1つとして「阿波国 福田庄」と見え(賀茂別雷神社文書/平遺4155),「賀茂注進雑記」の寿永3年4月24日条の記事にも同様に見える当荘の成立は寛治4年にさかのぼると考えられる「百錬抄」寛治4年7月13日条に「賀茂上下社被奉不輸田六百余町,為御供田」とあり,この年賀茂上下社に600余町の供田が寄進されているこれについては同年10月9日の某(三好か)郡司解が「賀茂別雷神社文書」中に残るが,これはこの時の供田寄進に関する具体例の1つで,荘名は欠損しているが,当荘の立券状と考えられる(平遺1288)同文書には「在管三津郷 四至〈東限弐拾条肆里拾玖坪辰巳角,南限拾玖条肆里拾弐坪未⊏⊐,西限拾玖条参里壱坪戌亥角,北限弐拾条参里壱坪⊏⊐〉田肆拾弐町佰拾歩〈之内当年見作廿三町百八十歩〉本田肆拾町〈之内当年見作廿三丁百八十歩〉剰田弐町佰拾歩〈已荒〉畠柒町柒段弐佰陸拾歩〈之内当年見作四丁一段,已剰畠四至内〉桑壱町佰弐拾歩〈四至内〉」と四至・田数が記されているその後,当荘に関する史料は見えないが,文明8年12月5日の室町幕府奉行人奉書に「賀茂社領阿州福田庄内請料年々未進并当年分事,当社被向仮殿造営料訖」とある同文書の宛所は天竺殿すなわち土佐国長岡郡大津村の天竺城主細川氏に出されたもので,当荘の請所であった天竺細川氏が請料を未進しており,その未進分と当年分の請料を合わせて賀茂社仮殿造営料に充てることを指示したものである(蠧簡集/高知県史古代中世史料)下って,三加茂町鴨神社の天文13年の棟札に「加茂福田庄」と見える(三好郡志)鴨神社は当荘の鎮守として京都賀茂神社を勧請したものと伝え,当荘は三加茂町加茂付近に比定されるなお江戸期の「阿波志」にも「福田荘 即加茂村」と見えるまた加茂付近は吉野川沿岸の平地にあたり,寛治4年の文書に見られる条里の遺構が確認されている(県史1) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田荘(中世) 鎌倉期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名備中国のうち所属郡未詳「永仁三年記」永仁3年正月5日条(続史料)に,「一,備中国福田庄雑掌申地頭非法事〈清金〉」と見え,当荘について幕府問注所に訴訟が持ち込まれているが,詳細は不明現在の倉敷市に福田があるが,中世において同地は海であったと推定され,またもし陸地となっていたとしても,備前国に属することになるので,同地に比定することはできない比定地は未詳備後国福田荘の誤りとも考えられるが後考を待ちたい... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」